東京高等裁判所 昭和49年(う)1546号 判決 1975年2月21日
被告人 狩野覚
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、浦和区検察庁検察官事務取扱検事中野博土作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これをここに引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。
所論は要するに、被告人が普通乗用車を運転し国道一号線わきの駐車場から右国道上に進出し、右方道路から進行してきて被告車両に進路を譲り一時停止した大型貨物自動車の前面を通過して右折進行中、右大型貨物自動車の右側方から進行してきた被害車両の左側面に自車左前部を衝突させたという事故発生状況下において、被害車両はセンターラインを越え違法な右側進行をしてきたものではないし、被告車両が進出した右国道上の地点には横断歩道が設置されており被害車両が右横断歩道直前で一時停止すべき義務を怠ったなどの点を考慮しても、被告人には右停止大型車両の前で一たん停車し進路右側に対する安全を確認すべき注意義務を怠った過失があるというべきであるのに、原裁判所は証拠の評価を誤り、「右の事故発生状況下において、停止中の大型貨物自動車の左側端はつるや食堂側の外側線から一三〇メートルの位置にあり、被害車両は車道中央線付近を(センターラインをオーバーして)走行してきて横断歩道上で被告車両と衝突したという事実が認められ、現場付近の道路は片側一車線(片側幅員五メートル)であることに徴すれば、被害車両は違法な右側進行をしてきたものであり、しかも横断歩道手前で一時停止すべき義務があるのに一時停止していないのであるから、被告人としてはかかる交通法規を無視し自動車運転者として無謀な方法で車を運転する者のあることを予見し事故を防止すべき注意義務はなく、また、被告人は大型貨物自動車の前で一時停止したとしても、同車が死角になって同車の右側方を直進してくる車両を早期に発見することは不可能に近いから、結局本件は犯罪の証明不十分に帰する。」旨判示して無罪の判決を言渡したものであって、原判決は事故の態様、過失の認定において事実の誤認があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
そこで所論にかんがみ記録を調査し当審における事実取調の結果を加えて検討するに、原判決挙示の証拠によると、原判決がその理由中の第二「証拠によって認定できる事実」の1ないし7に認定判示する本件現場付近の被告車両が進出してきた駐車場、国道一号線の位置関係、本件の現場の西方約七〇メートルに存する袋井橋から、本件現場の東方約七〇メートルに存する永楽町交差点までの右国道の道路状況、被告人運転車両(以下被告車両という)およびこれと衝突した鈴木和子運転車両(以下便宜上被害車両という)の本件事故に至るまでの各進行経過、事故直後の右各車両の状況、各衝突部位、被害者らの受傷の部位、程度等の各事実は、衝突地点に関する点を除いて、当裁判所においてもすべて肯認することができ(もっとも本件現場付近の国道上に設けられた横断歩道から永楽町交差点手前までの右国道上り車線上に標示設置されている導流帯につき、原判決は、罰則はないが車両の通行は禁止されているというが、右標示は規制ないし禁止標示ではなく単なる指示ないし警戒標示にすぎないから、車両の通行は望ましくないとはいえ、禁止されているとの表現は正確を欠くというべきであろう)、次いで、本件の中心争点である被害車両がセンターラインを越えて違法な右側進行をしたものであるか否かの点についても、これに関し原判示認定中衝突地点などの点においては必ずしも首肯し難いが、結論において、被害車両がセンターラインを越え違法な右側進行をしたとする原判示認定は、これを充分に肯認することができる。その理由は次のとおりである。
まず、本件現場付近の上り車線における進行車両の停止位置状況についてみるに、なるほど所論が指摘するように、これら車両が道路左側端寄りにその右側方を他の車両が通行し得る余地を残して連続停止する状態が皆無とはいえないことは、前示の片側車線五メートルの道路幅や当審証人細田英寿の証言に照らしても、これを全く否定することができないところではあるが、原当審裁判所において右の点につき検証した各結果によれば、右のように停止車両が、進路前方の永楽町交差点の手前約七〇メートルの地点である本件現場付近や更にその手前袋井病院のあたりにかけてまで、右側方に車両が通行し得るほどの余地を残し道路左側端に寄って連続停止する状態が現出することは稀有のことであって、むしろ後記の状況にも照らし、本件当時そのような状態にはなかったと考える方が自然であり、その意味で、原判決ほど断定的にいうことはできないにせよ、なお原判示認定をほぼ肯認することができるものといわなければならず、これに反し、前記証人の証言中、夕方頃のラッシュ時には本件現場付近の上り車線の進行車両は左側端寄りに停止するものが多いという部分は、にわかに措信できない。更に、このような車両の進行停止状況に加え、本件の事故発生時前後における具体的状況等を併せて検討するに、原当審証人水野泰雄の証言によれば、本件事故により被害車両の左ドアのガラスと被害車両の左前照灯ガラスが破損し、実況見分時に、本件現場の横断歩道上やや東寄りにセンターラインを中心として、これらのガラスの破片と認められるものが散乱していたこと(なお同証人は、事故後本件現場付近を走行する車両によってガラス破片の位置が移動したことが考えられるというが、センターライン上は通常車両があまり走行しないところであり、また、センターラインと平行の方向にある程度動くことが考えられても、これと角度をなした方向に動くとは考えられず、事故後発生時から実況見分着手時まで僅かに約二五分しか経過していないことからみれば、右のガラス破片が散乱していることが認められた位置関係は、事故直後のそれとほぼ変りがないと考えられる)、自動車が衝突した衝撃によって破損したガラスの破片は、これに他の外力が更に加わるなどの特段の事情がない限り、そのガラスが装着されていた車両の進行方向に、その高さと自動車の進行速度に相応した距離の地点に飛散するものであることは経験則上明らかであり前同証人の証言によれば、ドアに装着されたガラスは、それが衝突によって破損した際、時速四〇キロメートルの進行速度においては衝突地点の三、四メートル前方に飛散するものであると認められること、前示認定(原判示の前記1ないし7)のとおり、被害車両は本件現場に差しかかり、徐行中の先行車両二、三台を時速約四〇キロメートルで追越し、更に、その前方で連続停止している二、三台の車両および本件現場の横断歩道直前で停止している大型貨物自動車の右側方をそのままの速度で通り抜けようとしたものであって、このような進行状況からすれば、被害車両は、センターラインを越えていたかどうかは一応おくとして、センターラインと平行した方向に直進していたものと認められるところ、前同認定のとおり、被害車両運転者鈴木和子は被告車両を間近に認め危険を感じて急制動をかけるとともに右へハンドルを切ったのであるが、危険を感じてハンドルを切った際、これが前輪に伝えられ更に前輪と路面との摩擦効果によって方向転換を開始するまでには、あるいは一瞬のこととはいえ、なお若干の時間を要することは、運転者の反応速度や自動車の構造等から自明の理であり、同女が危険を感じて右へハンドルを切ったという地点から衝突地点までの距離を記録にあらわれた推測最大限の六メートル前後とみても、これを時速四〇キロメートルで走行するに要する時間は〇・六秒程度にすぎないことから考えると、本件の衝突時点においては、被害車両は未だ方向転換を開始するに至っていなかったと考えられるのであって、瞬間右にハンドルを切ったことは、被害車両の左ドアガラス破片の飛散方向に関しなんら影響はないものとみて差支えがないこと、被害車両と被告車両の前同認定接触部位および司法警察員作成の実況見分調書添付写真に示された両車両の破損状況からみても、被害車両左ドアのガラス部分は両車両の直接の接触面より上部に位置し、これが衝撃により破損され飛散する際に、被告車両によって加えられた力によって被害車両が右斜前方に押し出されたとしても、瞬間すでに車体から離れ、あるいは離れようとしているガラス片の飛散方向がこれに影響されることはきわめて少なく、ほぼ従前の進行方向に飛散すると考えられること、これに対し、被告車両前照灯のガラスは両車両の直接の接触面にあたるものであるから、被害車両によって加えられた力によってそのガラス破片の飛散方向はかなりの影響を受けるものと認められ、前示衝突態様からすれば、恐らく右ガラス破片は、被害車両の左ドア面にそった同車両進行方向に、同車両左ドアガラスの破片よりはやや手前に落ちるものと考えられること、なお、被害車両運転者である鈴木和子は、同人の原当審における証言によると、運転経験がやや浅く運転者として必要不可欠ないわゆる幅の感覚知識にも乏しいといわなければならないことなどが認められ、これらの点を綜合すれば、被害車両は進路前方の永楽町交差点で右折すべく進行中、徐行する先行車両あるいはその前方の停止車両とセンターラインとの間に自車が通行し得るだけの余地がないのに、あえてこれら車両の右側方を進行しようとして進路を右に変更し、被害車両の左ドアの部分がセンターライン上を進行する状態で、換言すれば、車体のほとんど全部分をセンターラインを越えて反対車線にはみ出させた状態で直進してきて、本件現場のセンターライン上の地点で被告車両と衝突するに至ったものであり、その結果、衝撃により破損した左ドアガラスは、そのまま進行方向に飛散して横断歩道上東寄りのセンターラインを中心とする一帯に落下したものと認めるのが相当であり、なお、右衝突地点については、原判決はガラスの破片が散乱している付近であるというが、右判示はやや正確を欠くものというべく、被告車両の前照灯ガラスの破片が被害車両左ドアガラスの破片より手前に落下したであろうことを考慮に入れても、それより若干西寄り少なくとも二、三メートルの地点であったと認めるのが相当である(原判決は右認定の根拠として、被害車両運転者が急制動をかけたという地点と事故直後これが停止した地点との距離が、空走距離を考慮に入れても長すぎるというが、右の距離は前記実況見分調書等によると一二、三メートルにすぎないから、時速約四〇キロメートルの速度から考えて長すぎるとはいえない)。そうすると、衝突地点については原判示認定には必ずしも首肯できない点があるとはいえ、被害車両がセンターラインを越えて違法な右側進行をしてきて被告車両と衝突したとの点については、原判示認定は優に肯認することができるものといわなければならず、原当審証人鈴木和子、同水野泰雄の各証言、前記実況見分調書、被告人の司法警察員に対する供述調書中右認定に反する部分は措信できない。
以上認定の事実によれば、原判決が詳細に説示するとおり、被告人には本件の状況下において、被害車両のように交通法規に違反して反対車線を進行してくる車両のあることを予見し、その有無を確認してこれとの接触事故を未然に防止すべき業務上の注意義務は、更に被害車両が横断歩道直前における一時停止義務を怠った点を考慮するまでもなく、本来的にないというべく、あるいは、交通量の多い国道上に路外施設から連続停止車両の間を通って右折進行するのであり、かつ、右方停止車両とセンターラインとの間にはなお若干の余地が残されていたのであるから、被告人が所論指摘のような方法でより慎重な運転をすれば、早期に被害車両を発見し事故を避け得たかも知れないといい得るとしても、右にのべたように、本来被告人には被害車両のような進行車両の有無を確認すべき義務はないのであるから、右の点をとらえて被告人に過失ありということもできない。
その他記録を精査し当審における事実取調の結果を加えて検討してみても、原判示認定に所論が指摘するような過誤を発見することができない。論旨は理由がない。
よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判官 矢部孝 石橋浩二 佐々木條吉)